横川いろいろ

横川の歴史

~その個性の謎~

楠木の大雁木

出典:和から輪へ

はじめに

横川の街に、おもしろさや個性を感じてくださる方は、少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。
そんな中、「横川の歴史にも、おもしろさや個性がありますよ。」と教えてくださる方がいて、「個性ある横川の歴史をただ教わるだけではなく、せっかくだから、学んだことをみんなで共有しよう!」と、横川の歴史資料をかき集め、整理し、横川の顔であるJR横川駅の駅前広場に掲示する運びとなりました。

このページは、駅前広場に掲示した「横川の歴史 ~その個性の謎~」のWeb版です。
なぜこのような個性のある街になったのか、横川の歴史とともに、横川のことをもっと知っていただき、また、実際に駅前広場へ設置されているパネルの実物を見に、足を運んでいただけるとうれしいです。

横川の歴史パネル

横川の歴史 英語バージョン "Yokogawa, the time"

「横川」と呼ばれた川が街の運命を決めた

横川の歴史は、1591年に広島城が築かれたことで大きく動きはじめます。城地に選ばれたのは、大小複数の島からなる太田川デルタ(三角州)の一番広い島。その北西に位置する島「別府の荘」が横川の祖地です。太田川は、デルタ内で縦(南北)方向に分流しますが、本川から天満川に分岐する部分が唯一横(東西)方向に流れるため、珍しがって「横川」という愛称がつきました。

この横川によって城下町と切り離されたことが、別府の荘の運命を決めたのです。

寛政年間(1789~1800)頃の広島城下町割り図
天文年間(1532~1555)頃の五か村所在図(太田川デルタ図)

苦難の中で育まれた自助共助の精神

運命の一つめは、城下町を水害から守るため、別府の荘が遊水池の役割を持たされたこと。

広島城普請では、「城下町の堤防は高く、城下町より上流側の堤防は低くして浸水させ、下流の水量を減らす」との考えから、別府の荘の本川堤防は低く築かれました。太田川が氾濫するたびに水浸しになり、出所は不明ですがこの地は「さいかちケ原」とも呼ばれました。

今も本川右岸では、堤防を切り下げた「水越し」の痕跡が確認できます。「打越町」という町名は、浸水して溜まった水が「内」から外(旧福島川、旧山手川)に「越す」という意味を含んでいると考えられます。

そうして近年まで水害に苦しめられた横川。1919年7月5日の芸備新聞には、「三篠新庄橋、横川橋、電車橋が流出し、人家は床下浸水、横川駅の如きは天井下まで浸水。横川は孤立し援助の方法なし」という記事が掲載されています。

城下町を守るために洪水被害を受忍し、地域住民が一致協力して復旧復興を成し遂げてきた歴史が、自助共助のコミュニティ精神を育んできました。

自助共助の精神を示す事実として、1918年に富山県で発生して瞬く間に全国に広がった「米騒動」の際、当時の三篠町(現在の横川を含む地域)では米穀を町の管理とするなど独自の対策と地域の結束で騒動を防いだことは特筆すべきものです。

大正8年(1919)の水害「横川市中浸水」たらいを舟にして移動する人の姿も
大正8年(1919)の水害「横川橋崩落」
広島の米騒動を報じる中国新聞(大正7年8月14日)

人や物資が集まり、さまざまな商いが起こる

運命の二つめは、城下町から外れたことで、「城下町の玄関口」という魅力的な条件を得たこと。

別府の荘は、背後に米、野菜、木材、鉄材などを生産する北部の農山村地帯を控え、眼前には横川と呼ぶ川を挟んで広島城下町が広がっていました。城下町が拡大発展するにつれ、背後の太田川上流域から農林特産物やさまざまな物資が運ばれてきて、自然発生的に雑多な商いが起こり、人家が増えていきます。

やがて、草深い「別府の荘」や「さいかちケ原」の名は忘れられ、川の愛称そのままに「横川」という地域呼称が定着しました。

昭和6年(1931)頃 太田川の舟運(中区)
大正9年(1920)横川橋(再建)開通祝い風景
昭和26年(1951)横川商店街
「川崎薬局」
横川橋を渡る牛車(年代不詳)
昭和11年(1936)横川駅前電停付近
「中島商店」

自由闊達な気風、起業のまち“三篠”

1929年に広島市に編入される以前の安佐郡三篠町(現横川町、三篠町、楠木町、中広町ほか)には「来るもの拒まず」「なんでもやれる」気風が形成され、先駆的なコト起こしやモノづくりが始まります。

モノづくりでは、中国山地の砂鉄と太田川の舟運が生んだ製針工業は、大正時代に東洋一の針の生産地に導きました。また、木材、藍、種苗、酢、鋳物、ガラス、ゴム(ボール)など多種多様な産業が集まり、独自の強みで国内外に名をなすオンリーワン企業も育っています。

昭和31年(1956) 横川商店街

縫針の包装
四打一括「縫針の縁起」から(田村眞平氏提供)
昭和25年(1950) 広川の練炭工場
昭和30年(1955) 寺西商店の初荷風景
歴清社「金箔製造風景」
昭和35年 鋳物工場
昭和30年(1955)頃 広島トヨペット本社(右手建物)
広島の新庄町にあった玉藍の卸所の図
藍染反物(年代不詳)
昭和41年(1966) 新庄みそ工場全景
小西養鯉場(年代不詳)
赤木染工場「染め工程」

バレー、サッカー、バスケットなど球技用ボールを製造する「ミカサ」と「モルテン」は、国際大会の公認球ブランドとして知られています。広島のソウルフード・お好み焼きに欠かせない「オタフクソース」、県内初のスーパーマーケット「主婦の店」(現在のフレスタ)も創業の地はかっての三篠町です。

原爆によって灰塵に帰した「フタバ書店」は、いち早く焼け野原の東京神田に赴き雑誌を買い付け、横川駅前の闇市で販売。地域住民を元気づけたというエピソードも残っています。

ミカサ「革貼り作業風景」
大正11年(1922) 創業当時の佐々木商店前(現オタフクソース)

こうした起業家が集まるこの地に現在の広島信用金庫の前身の「三篠信用組合」が誕生しました。1943年当時の資金量は全国にあった292の市街地信用組合の中で圧倒的な1位を誇っていました。

かっての安佐郡三篠町には築城以来の自由闊達な気風が今も健在です。

昭和30年(1955) 横川駅北側方面を望む
三篠信用組合本部事務所落成披露(昭和13年5月)

街を変えた太田川放水路工事、そして今

昭和30年代初期の横川駅前風景

城下町を守るために浸水リスクを背負ってきた横川地域にとって、太田川の治水工事は永年の悲願でした。太田川本流をデルタ西端に大迂回させる放水路が完成したのは1967年、築城以来、度重なる洪水から横川地域が解放された歴史的な年です。

太田川放水路工事前の広島(太田川デルタ)
太田川放水路工事後の広島(太田川デルタ)
昭和39年(1964)頃の天満川(中広中学校付近)
昭和42年(1967)頃の天満川(中広中学校付近)
昭和50年(1975)頃の天満川(中広中学校付近)

放水路に高い堤防を築くためには、交差する山陽本線や可部線の嵩上げを必要とします。当初の計画は「盛り土方式」でしたが、街が分断され、商店の立ち退きが生じることを問題視した横川の住民たちが立ち上がります。「高架式」を要望する住民の粘り強い地道な運動が実り、街の中心部(横川駅周辺)は高架式に変更され、それまで離れていた山陽本線駅と可部線駅が横川駅で結合しました。

昭和30年(1960)頃(工事中)の横川駅

広島初のガード下商店街

高架式工事によって空いた旧鉄道用地には、三篠地区社会福祉協議会や地域住民の要望で広島県内初の「店舗付き市営住宅」や「横川商店街振興組合ビル」が建てられ、広島初のガード下商店(飲食)街も誕生しました。飲食街は2019年にリニューアルし、観光客や家族連れも気軽に立ち寄れる店が軒を連ねています。

新旧6つの商店街が連合

かって横川には、6つの商店街がありました。旧街道筋の「駅前商店街」、「横川本通商店街」、「繁栄会」、レトロ感漂う路地にある「くろすろーど商店街」、「星のみち商店街」の5つの商店街は戦後に復興。その後、鉄道の高架を機に再編された6番目の「新宿商店街」が誕生しました。6つの商店街はともにスクラムを組んで活動を続けていましたが2021年、「繁栄会」は「横川本通商店街」に合流し、現在は5つの商店街で活動しています。

昭和53年(1978)の横川商店街図

三篠地区社会福祉協議会と横川地区5つの商店街の役割

三篠地区社会福祉協議会は、とんど祭や学区町民親善大運動会、横川ふしぎ市やかよこバス記念日イベントなど16の町内会と地域団体と密接な連携を図り、地域住民が一体となったまちづくりに努めています。

1964年に設立された横川商店街振興組合が所有する山陽本線沿いの2棟の細長いビルには組合事務所のほか、ユニークな運営で知られる映画館「横川シネマ」、女子サッカーチーム「アンジュヴィオレ広島」を支える「特定非営利活動法人広島横川スポーツ・カルチャークラブ」、さらには「コト起こし」に集まる若きアーティストたちのシェアアトリエ「横川創荘」などが雑居して活動しています。

アンジュヴィオレ広島(2020年11月1日 最終戦)

三篠地区社会福祉協議会と横川の5つの商店街は連携して地域活性化活動を行っています。多彩なイベントの企画実行を司る「横川カンパイ!王国」や地域の住民や企業で構成する「横川エリアマネジメント連絡協議会」は横川らしい特色のある「まちづくり」に取り組んでいます。

横川カンパイ!王国
横川ゾンビナイト

地域の連携から生まれた「横川ふしぎ市」

第1回 ふしぎ市
「こんな街じゃけん横川は」

1994年に開業したアストラムラインによって横川を経由する路線バスは3分の2に激減しました。街の衰退を危惧した地域と商店街は新たな賑わい創出を期して1996年、横川最大のイベント「横川ふしぎ市」を生み出しました。

城下町を守るために不遇を乗り越える自助共助の精神、城下町の玄関口らしい「来るもの拒まず」や「チャレンジの精神」は今も地域住民の中に脈々と息づいています。

広島の路面電車小史

広島市は、①Bus(バス)が多い、②Branch(支店)が多い、③Bridge(橋)が多い、3Bの街といわれ、路線バスが活躍しています。そして、原爆ドームと並んで広島の街のシンボルになっているのが、「広電」の愛称でよばれる路面電車です。

他都市では、公営で始まることの多かったバスや路面電車ですが、広島は民営で始まり、今日に至っています。広電こと、広島電気軌道株式会社(現・広島電鉄株式会社)の開業は1912年。広島駅前~相生橋間、紙屋町~御幸橋間、八丁堀~白島間で運行を始めて以来、市民の足として発展してきました。

昭和4年(1929)の己斐
1950年代の八丁堀付近

【横川線】

1917年に開通した横川線は、広幅員の道路がなかったため、用地買収を伴う電車専用線を多用した単線。終点の「三篠電停」は、可部軽便鉄道の起点「三篠駅」との乗り換えに便利な旧雲石街道寄りに設けられました。

<1916年、横川線の単線への変更申請文書>

「横川線沿道ハ逐年発達状況芳シク(中略)起工痛切ニ感スル事既ニ久シ。然リト雖モ(中略)諸物価騰貴セル今日ニアリテハ多大の工費ヲ要シ(以下略)」

横川線は1910年、複線で特許を受けていたが物価の高騰により工事費が膨らみ、採算確保の困難が見込まれることから単線への変更を申請し、1917年11月1日に開通しました。

横川線は、かつての城下町と横川の一体化を促します。1917年、単線で開通した横川線ですが1938年には複線になりました。

被爆後の復興事業計画に伴い、横川線は十日市から国道54号線の真ん中を走る軌道ルートになり、現在に至ります。

昭和55年(1980)旧広島市民球場前を走るカープV3花電車
平成元年(1989)八丁堀を走るハノーバー電車
現在の横川駅

山陰と山陽を結ぶ交通要衝の地

江戸時代初期、寛永年間(1624〜44)の広島城下図

城下町の「北の玄関口」に位置する横川は、築城以来、人流と物流の起終点となる交通の要衝であり続け、交通手段の変遷の波を乗り継いできました。

街道の時代

築城とともに、出雲方面から中国山脈を越えて城下町へ入る雲州街道と、石見方面からの石見街道が整備されます。可部から横川までは、2つの街道が相乗りとなり雲石街道と呼ばれました。横川は、城下町を望みながら休息、飲食、慰楽、買い物をする現在のサービスエリアのような場所でした。

当時をしのぶ道標(石碑)が横川駅北口に残っています。

横川駅北口に残る雲石街道石碑

川船の時代

城下町へ農林特産物や物資を運ぶ手段として、太田川を利用した舟運が盛んになります。城下町の内外に、舟着き場である「雁木」が多く設けられました。なかでも横川には、太田川最大の「楠木大雁木」が造られ、可部と横川間を行き交う舟運の拠点として栄えました。

本川の右岸堤防に、大雁木をしのばせる階段があります。

舟運の拠点となった楠木大雁木(00XX年(19XX)頃)「三篠町沿革誌」より
大雁木から横川駅までの引き込み線がよくわかる(昭和20年7月25日 米軍撮影航空写真より 国土地理院蔵)
大正7年(1918)頃の別院裏
大正8年(1919) 長寿園からの川船による輸送風景

鉄道の時代

明治40年(1907年)頃の横川駅

明治になると文明開化のシンボル「鉄道」が開業します。本州西部の背骨にあたる山陽鉄道の横川駅が1897年に開設。肋骨にあたる横川起点の可部軽便鉄道が1911年に開通しました。

山陽鉄道の開通後しばらく、横川駅と楠木大雁木をつなぐ貨物専用の「引き込み線」が活躍していました。貨物の主役は、太田川の舟で運ばれてきた木材。線路の枕木用として全国に出荷され、「横川駅の枕木」として名を馳せました。

民営で創業し、国鉄に引き継がれ、民営のJR西日本が運行することになった山陽本線と可部線。横川は背骨と肋骨との結節点の座を保ち続けています。

広島市街地図(昭和00年発行)
横川駅と楠木大雁木をつなぐ貨物専用の「引き込み線」
軽便鉄道可部(撮影年不明)
軽便鉄道「八木梅林停車場」(撮影年不明)
昭和37年(1962)頃の横川駅
昭和36年(1961)頃の横川駅前

乗り合いバスの時代

明治38年(1905)2月5日、横川可部間自動車開業式の様子

1905年、人馬の往来が激しい雲石街道の横川~可部間に、わが国初の国産乗り合いバスが運行されました。

2004年、横川に集まった有志によって創業当時のバスが復元されました。可部と横川の頭文字を合わせて「かよこバス」という愛称がつけられ、「横川ふしぎ市」など地域のイベントで活躍しています。

普段は、横川駅前広場の特設車庫に格納されています。

わが国初の国産乗り合いバス
復元された「かよこバス」

路面電車の時代

昭和10年(1935)横川新橋を通る電車(毎日新聞)

全国的にその多くが廃止の憂き目にあった路面電車も、広島では都市交通の主役を演じ続けています。市内を南北に結ぶ横川線は1917年開通。かつて道路の真ん中にあった横川駅電停は、2003年のJR横川駅前広場のリニューアル事業にあわせて駅前広場内に移設され、利便性が増して乗降客も増加しています。このリニューアル事業は行政とJRが連携する「交通結節点整備事業」の全国モデルとして注目されています。

改修前の横川駅前。横川駅電停は道路の真ん中にあった
改修後の横川駅前

横川で創業した老舗企業

㈱赤木染工場

大正15、昭和元(1926)年7月創業

㈱牛尾煙火製造所

明治40(1907)年2月創業

1960年8月 煙火玉

小田億㈱

大正2(1913)年2月創業

小田種苗

明治30(1897)年1月創業

オタフクソース

大正11(1922)年11月創業

㈱小西養鯉場

大正8(1919)年7月創業

小西養鯉場三篠店の開店当時(昭和38年)

坂本重工㈱

明治43(1910)年4月創業

昭和35年頃(鋳物組合青年部が発行した書物に掲載)

新庄みそ㈱

大正12(1923)年6月創業

昭和41(1966)年12月撮影

住野工業㈱

明治39(1906)年2月創業

㈲寺西商店

大正12(1923)年10月創業

昭和30(1955)年

医療法人 厚生堂 長崎病院

明治10(1877)年1月創業

西川ゴム工業㈱

昭和9(1934)年12月創業

本社玄関

広川㈱

安政4(1857)年5月創業

練炭工場

広島アルミニウム工業㈱

大正10(1921)年4月創業

本社玄関

広島信用金庫

昭和20(1945)年5月設立

三篠信用組合本部事務所落成披露式(昭和13年5月)

広島トヨペット

昭和13(1938)年6月創業

旧本社(昭和37〜38年頃の国道54号線右手)

升萬食品㈲

昭和4(1929)年1月創業

店頭

㈱ミカサ

大正6(1917)年5月創業

昭和38(1963)年 本社

㈲やまよね

明治40(1907)年1月

㈱歴清社

明治38(1905)年5月

被爆煙突

「横川の歴史 ~その個性の謎~」
制作・協力

監修

池上義信

編集

村上正/三谷光司/大野勝又

設置関係者

横川エリアマネジメント連絡協議会/横川商店街振興組合/広島市/広島電鉄株式会社

制作

巣守金属工業株式会社/ユキパンデザイン