横川いろいろ

横川の歴史~その個性の謎~

楠木の大雁木
出典:和から輪へ

「横川」と呼ぶ川が街の運命を決めた

1591年、太田川デルタの一番広い島(洲)に築かれた広島城。
城下町のエリアから外れたデルタの一画「別府の荘」が、横川地域の祖地です。

デルタ内で縦(南北)方向に枝分かれする太田川の分流。
唯一、横(東西)方向に流れる、本川から天満川に分岐する部分には、珍しがって「横川」という愛称がつきました。

横川と呼ぶ川を境に城下町と切り離されたことが、別府の荘の運命を決めたのです。

運命の一つは、城下町を水害から守るため、別府の荘が遊水地の役割を持たされたこと。
「城下町の堤防を高く、上流側の堤防は低く」の考えから、上流側の別府の荘は、本川堤防が低くされた結果、堤防を越流する洪水でたびたび水浸しになり、「さいかちヶ原」と呼ばれるようになりました。

1919年7月5日の芸備新聞記事「三篠新庄橋、横川橋、電車橋が流出し、人家は床下浸水、横川駅の如きは天井下まで浸水。横川孤立し援助の方法なし」

城下町を守るため洪水被害を受忍し,復旧や復興に協力し合ってきた歴史が、自助、共助のコミュニティ精神を育んだのではないかと考えられます。
1918年、米価高騰に便乗して投機に走る米穀商人に反発する市民の打ちこわしなど米騒動が全国的に広がったとき、米穀を町の管理にするなど独自策と地域の結束で機敏に騒動化を防いだことも、記憶したい歴史です。

なお、本川右岸には、洪水の流入を誘導するため堤防を切り下げた「水越し」の痕跡が確認できます。地名の「打越町」は、溜まった洪水が「内」から旧福島川、旧山手川に「越す」意味を含んだものと考えられています。

運命の二つは、城下町から外れたことが逆に「城下町の玄関口」という魅力的な条件を得たこと。

背後には、米、野菜、木材、鉄材などを生産する北部の農山村地帯を控え、眼前には、横川と呼ぶ川を挟んで大消費地の広島城下町が広がる。

自然発生的に雑多な商いが起こり、人家が増えて行きます。
草深い「別府の荘」や「さいかちヶ原」の名は次第に忘れられ、川の愛称そのままに「横川」という地域呼称が定着して行きます。

時代の先端を行く輸送機関、交通拠点の街

街道の時代。
横川地域は、内陸中心地の可部や、中国山脈越えの出雲、石見からの人馬が、城下町を望みながら、休息し飲食し慰楽し買い物する、一種のサービスエリアでした。
出雲、石見へ連なる「雲石街道」をしのぶ道標(石碑)が、横川駅北口にあります。

川船の時代。
城下町の内外には、堤防を階段状に加工した船着き場「雁木」が多く設けられました。
太田川最大の「楠木大雁木」を持つ横川地域は、可部と横川間を行き交う川船交通の拠点として栄えました。
本川の右岸堤防に、大雁木をしのばせる階段があります。

鉄道の時代。
文明開化のシンボル「鉄道」。本州西部の背骨にあたる山陽鉄道の横川駅が、1897年に開設。
肋骨にあたる横川起点の可部軽便鉄道が、1911年に開通。

山陽鉄道には開通後しばらくの間、横川駅と楠木大雁木をつなぐ貨物専用の「引き込み線」が活躍していました。
貨物の主役は太田川で運ぶ木材。線路の枕木用に使う「横川駅の枕木」として名を馳せました。

民営で創業し、国鉄に引き継がれ、民営のJR西日本が運行することになった山陽本線と可部線。横川は背骨と肋骨との結節点の座を保ち続けています。

乗り合いバスの時代。
人馬の往来が激しい雲石街道の横川・可部間に、1905年、国産バスによる我が国初の乗り合いバスが運行されました。
2004年、最初のバスを再現しようと横川に集まった有志によって、「復元バス」が完成しました。
可部と横川の文字を合わせた「可横」をひらがなで表記して「かよこバス」という愛称がつき、「横川ふしぎ市」などさまざまな地域イベントの盛り立て役として活躍中です。
ふだんは、駅前広場内の特設車庫に格納しています。

路面電車の時代。
自動車や地下鉄に座を譲る形で順次廃止されてきた我が国の路面電車ですが、広島では都市交通の主役を演じ続けています。
広島駅、西広島駅、宇品港と横川駅(横川線は1786年開通)を縦横に結ぶ、広島電鉄の密度の高いネットワークと、低床の新型電車が魅力です。

かつて道路の真ん中にあった横川電停は、横川駅前広場のリニューアル事業にあわせ、2004年、駅前広場内に移設されました。
「国産バス発祥の地」をモチーフにデザインされた駅前広場は、大学のある西風新都方面行きなどたくさんのバスが発着し、若者でにぎわう空間になっています。

先駆者としてやってくる商い人、起業家たち

いつもどこかで先駆的なコト起こしやモノ作りが始まっている。
商店や金融機関しかり。
ものづくりでは、木材、藍、種苗、ソース、針、鋳物、ガラス、ゴム(ボール)。
独自の強みで国内外に名をなすオンリーワン企業も育っています。

広島の食のブランドお好み焼き。「広島風」に欠かせないお好みソースは、横川から生まれました(社名を「お多福酢」からとったオタフクソース)。

県内初のスーパーマーケット「主婦の店」。現在のフレスタの前身です。

被爆で灰塵になったフタバ書店は、被爆後の住民を元気づける雑誌の買い出しに、東京神田の焼け跡に駆けつけます。
横川駅前の闇市バラックの一角で販売した雑誌はたちまち売り切れました。

ゴム草履の製造から出発したゴム産業。
モルテンやミカサが作る、バレー、サッカー、バスケットなど球技用ボールは、国際試合に採用されるブランドになっています。

中国山地の砂鉄と太田川水運の利便が、横川地区に縫い針、ミシン針の工業を発達させ、大正時代には広島県を東洋一の針生産地に導きました。

起業家が集まる横川には、全国でも珍しい信用組合方式の金融機関(三篠信用組合)が誕生しました。現在の広島信用金庫の前身です。

商人や職人を職種ごとの集団で配置する城下町から出発した、広島の整然たる都心部。
「来る者拒まず」「何でもやれる」土壌から自然発生的に形成されてきた、業種の雑多、新旧の雑居、街並み雑然の横川。
大広島の中での存在感と街の雰囲気には、独特なものがあります。

街を変える契機となった太田川放水路工事、そして今

城下町を守るため太田川の浸水リスクを背負ってきた横川地域にとって、太田川本流をデルタ西端に大迂回させる放水路が完成した1965年は、悲願達成の年。

一段と高い堤防を持つ放水路は、交差する山陽本線や可部線の「嵩上げ」を必要としました。

街が分断され、商店の立ち退きが出る「盛り土方式」を問題視して立ち上がった横川住民が要望したのは「高架式」への変更。
地道な運動が実って、街の中心部(横川駅周辺)は高架式になり、離れていた山陽本線駅と可部線駅が結合しました。

高架駅の下には広島初の「ガード下商店街(飲み屋街)」が誕生。
不要になった旧鉄道用地には、住民の要望に沿うよう、県内初の「店舗付き市営住宅」や、横川商店街振興組合の多目的ビルの建設用地に転用されました。

「横川商店街」は、被爆後復興した4つと、鉄道高架化に伴って再編した1つが、スクラムを組んで活動しています。

旧街道筋には、駅前商店街、横川本通り商店街。
むかし感漂う狭い路地には、くろすろーど商店街、星のみち商店街。
住民運動で実現した鉄道高架下には、新宿商店街。

鉄道の嵩上げ問題を機縁に1964年に設立した横川商店街振興組合。
山陽本線沿いの細長い振興組合ビルには今、商店街事務所のほか、ユニークな運営で知られる映画館「横川シネマ」、女子サッカーチーム「アンジュヴィオレ」を支えるNPO法人スポーツ・カルチャークラブ、「コト起こし」にやってきた若いアーティストのスペースなどが雑居しています。

振興組合は、横川商店街連合会や地域のコミュニティ団体と連携しながら、横川らしく特色ある多彩なイベントの企画実行、住民参加による街づくりの話し合いなど、「横川らしいまちづくり」に取り組んでいます。
城下町を守る時代から引き継いだ不屈、共助の精神で…

<参考>広島の路面電車小史

多くの他都市では公営で始まったバスや路面電車。
広島は民営で始まり、今日に至っています。
数社が運行するバスは、広島の街がバスのBを含む「3Bの街」と呼ばれるほどに活躍。
広島電鉄(株)が運行する路面電車は、原爆ドームと並んで、広島の街のシンボルに。

路面電車は、広島電気軌道株式会社が創業しました(広島電鉄株式会社設立は1942年)。

【東西幹線】

1912年、広島駅~八丁堀~紙屋町~相生橋~左官町(今の本川町)~天満町~小網町~福島町~己斐(西広島駅近く)の東西幹線(複線)が全通し、これが市内ネットワークの基軸になります。

【東西幹線から北方面】

八丁堀~白島の白島線が1912年に、左官町からの横川線が1917年に開通しました。

【東西幹線から南方面】

紙屋町から御幸橋までが1912年、さらに宇品までの延伸による宇品線全通が1919年、十日市からの江波線全通が1944年、的場町から皆実町まで(宇品線接続)の皆実線(比治山線)が1944年に、それぞれ開通しました。

【横川線】

1917年に開通した横川線は、広幅員の道路がないため、用地買収を伴う電車専用線を多用した単線でした。
横川線終点の「三篠電停」は、可部軽便鉄道の起点「三篠駅」との乗り換え便利な旧雲石街道寄り。

<横川線の申請書>

「横川線沿道ハ逐年発達状況芳シク…起工痛切ニ感スル事」

横川線は、城下町を脱皮して近代化する広島市の中心部と横川地域との一体化を促し、1929年、横川地域を包含する安佐郡三篠町は広島市との合併を果たし、1938年には横川線が複線になりました。

横川線は、被爆後の復興事業の道路計画に伴い、十日市から国道54号の真ん中を走る軌道ルートになりました。

【廃止の危機脱出】

被爆後もたくましく全線復活した路面電車。
路線整備や複線化に40年の歳月をかけた、全国トップクラスのネットワークも、モータリゼーションが招く道路渋滞に巻き込まれます。定時運行の困難から利用者が減り、存続(民営採算)の危機に立たされます。

危機を救ったのは、1971年、広島県公安委員会(県警)の英断で実行した、全国初の道路の軌道敷内への諸車乗り入れ禁止。
定時性が向上し、利用者は回復して行きました。

【路面電車の復活】

その後、公共交通重視の政策転換もあって、路面電車を見直す世界的な潮流が生まれます。
広島電鉄は、低床の新型車両の導入や運行サービスの改善を進める一方、行政と組んでネットワークの見直しや再生に取り組んでいます。

<見直しの具体例>

広島駅から都心部への迂回ロスを解消する、高架式駅前大橋ルートの新設。
広島駅ビルの再開発と連動し、新駅ビルの2階(コンコース階)に高架で乗り入れる。開通予定は2025年春。

「路面電車の街広島」は進化し続けています。